社会制度と水引


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

贈答品にかける水引は、礼法の折り紙の発展とともに発達、成熟していきました。
日本で礼法の概念が明確にされたのは、武家社会になってからのことです。
自分を正しく律して、真心を込めて相手を敬い奉仕する。
こうした気持ちを口にするのではなく、形に置き換えて相手に伝えることが、
その基本的な考え方でした。

鎌倉時代の武家社会では、物品を和紙で包み、紙縒で結んでとめて贈ることが、
すでに礼儀作法のひとつとして成立していました。
紙は非常に貴重なものでしたから、その紙で包むと霊が吹き込まれるという意味もあり、
さらにそれを結ぶ水引の形で贈り物の意味を伝えたものです。
もう1つには、゛封印する ”という役割を兼ねており、
結び直しのきかない和紙製の紙縒(水引)をつかうようになったのです。

封建的身分制度を基礎とする上下関係が固定化するとともに、
道徳的観念も強まり、それまでの宮中や貴族社会のしきたりとは異なる
武家社会のなかの約束事、決まり事が徐々に整えられ、
礼節を基本とする独自の礼儀作法が確立していきました。

三大将軍足利義満のとき、室町幕府は殿中の礼法として、伊勢流に礼法を確立させました。
この時代、小笠原流(弓馬の礼法が中心)、細川流、今川流など、
さまざまな武家礼法が成立しています。
『貞丈雑記』(伊勢流伊勢貞丈著)に、
「・・・・・・鎌倉将軍頼朝卿より武家の威勢強く、公家には公家の礼法を守り,
武家には武家の礼あり、京都将軍義満公のときにいたりてことごとく
武家の礼法を守ることにぞなりける・・・・・・」とあります。
そしてこれらの武家の礼法のなかで、贈答物の包み方、
水引の結び方なでも細かく定められ、
後には広く人々の生活の中で伝えられていくことになるのです。

戦乱に明け暮れた世の中が安定し、徳川政権下で平穏な時代が続くと、
武家社会の形骸化が進み、礼法もその元となった精神よりも
形式を重んじるようになっていきました。
やがてその礼法は、町方にも普及していきます。
その理由の一つには、経済力によって武家と互する力を蓄えた町人階級が、
“礼儀作法 ”という一種の格式を求めたのでしょう。
そうした動きに諸藩の浪人や礼法の素養のある御家人が、礼法指南を職業とし始めました。
どの流派も御とめ流として一子相伝、本来外には教えないものなので,
町人階級に教える場合には、少しずつ紙の折り方を変えたり、
結びの手先の動きを変化させたりして伝授したので、
多種多様な折り紙や結びが作られることとなったようです。
それはまた、町人文化と相まって、より華やかに美しくなっていきました。


江戸時代には、水引をつくり、それを結ぶことを生業とする水引師が
職業としてすでにあったようで、『人倫訓豪図彙』六にその図が見られます。

明治になると、女子師範学校、華族女学校などができましたが、
その学校でお作法として徳川家の礼法、つまり小笠原流が取り入れられ、
女性必修の教養として折り紙、水引結びが伝承されていくことになりました。


大正から昭和にかけては、『獨習自在 禮式折紙水引結』(西田虎一著)や
『日常作法 折紙と水引』(大妻コタカ著 -大妻女子大学の祖)などの
女学生向けの折り紙、水引の本も出版されています。
この時代には、社会的に水引結びが重視され、
現在に負けないぐらいの色彩豊かな水引が多種ありました。
また、結びの形にも工夫がなされ、
今見る結びの多くがこの時代までに完成したと思われます。

明治から戦前までが一番水引結びが発展した華やかな時代だったと思われます。
この時代、女の子は、先生を家にお招きして、
お茶、お花、舞、謡、作法などの稽古事を習ったわけですが、
水引もその中のひとつとして、じっくりと時間をかけて習得したようです。
京秀も十四歳頃より他のお稽古事と一緒に水引を習ったのですが、
京秀の育った越前敦賀は、とくに水引結びが盛んな地で、折り紙につける結びの形が用途別に
細かくあるだけでなく、花、鶴亀縁起物、高砂の人形、海老などの立体的な細工物が
、冠婚葬祭をはじめとする生活の中で使われていました。
結びはじめがどこなのか、またどのように結び、形にしていったのか
わからないような工芸品が、現在でも数多く残っています。